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2016.10.23 / Category : Blog
2016年度卒論合宿(2016年10月21日~23日)

毎年、恒例となりつつある上智大学セミナーハウスでの卒論合宿が無事終了しました。21日の夜から始まった合宿では、2日間で合計8本の卒業論文ドラフトについて密な議論が交わされました。参加学生は事前に配分された論文を読んできて、合宿では、執筆者が一時間ずつゼミ生からの質問に答えてきます(耐えます、といったほうがいいでしょうか)。あと数週間で完成ということもあり、執筆者の専門知識もぐっと増え、質疑応答もかなりレベルの高いものとなっていました。

合宿中、たまたま今読んでいる好井裕明著『違和感から始まる社会学』(光文社新書、2014)の冒頭のくだりが、幾度となく頭に浮かびました。

 私は学部生の卒業論文を読むのが好きだ。彼らは、就職活動で多大な時間とエネルギーをとられながらも、自らの問題関心をもとに読んだり、調査したり、フィールドワークをしたり、聞き取りをしたりして、独自の成果を作り出す。
 学問的水準などという厳しいことを言いだしたら、いろいろと批判できるが、粗削りな問題関心のもとで、いま自分ができる営みをがんばり、一つの”作品”としてまとめあげる。そのエネルギーと問題関心、彼の思索の軌跡が卒業論文のなかで嬉々として躍動しているのを見るのがこのうえもなく楽しいのだ。(8頁)

確かに粗削り、そして議論も一貫していないこともしばしばあります。でも、先行研究や方法論を意識しすぎて、内容ががんじがらめになっている研究より、自由な発想のもとで追究したいことを思い切って研究するゼミ生の卒論はずっとずっと面白いです。

合宿のもう一つの醍醐味は、卒論が、ゼミというアカデミック・コミュニティの中で、磨きをかけられ、洗練されていく過程を体験できるということです。もちろん、研究や執筆には孤独が常に付きまといますが、ここでは、あえて未完成の作品を読んでもらい、ゼミ生からの意見・アドバイスをもらいます。このような場に身をおくことで、論文の魅力が引き出され、見違えるほど変身していくのです。

合宿先の近くの雲場池で見た紅葉のように、緑から鮮やかなオレンジや赤に色付いた卒論が手元に届くのが、今から待ち遠しいです。

seminar2016

ゼミ集合写真@雲場池